「私」という概念が生まれたのはたぶん農耕文化の弥生時代から。
なぜなら、農耕を営むことによって私有財産という考えが芽生えたからです。
「私」とは穀物(禾)を囲む(ㇺ)という語源からしてそうです。
私有財産という考えは「私」と「私以外の人」とを分割し、争いを引き起こす根源でもあります。
たとえば狩りをしてとらえた獲物は、その部落の共有財産だった。
あるいは、神様のものであった。
だから争うことなく、老いも若きも、男も女も、分け隔てなくみんなで均等に分け食した。
残った骨は加工して狩猟の道具に使ったり、神器として使った。
残すことはなかった、むだにするところもなかった。
なぜなら、先祖の化身であるし、神様の贈り物であったから。
そんな時代が一万年以上もこの日本列島に存在したのです。
ところが私有財産の萌芽である弥生時代、それから私有財産の行き着く果てである現代は、資本主義といわれ、さらに❝高度❞資本主義と言われ、私有財産の争いは持つ者と持たざる者を両極端に分断してしまった。
さらに強欲な資本主義は満足ということを知らず、私有財産の天井知らずの蓄積に余念がない。
それも、持たざる者が圧倒的に多くなった現代は、中流が崩壊する危機に瀕していて、中流が崩壊すれば民主主義は持たなくなる。
民主主義とは、資本主義を支える強力な仕組みなのですから。
まさに、資本主義の馴れの果てが資本主義そのものを食いつぶそうとしているのです。
そこで、原点回帰ではないのですが、縄文時代への再考が叫ばれ、ブームとなっているのでしょう。
だいたい、「私」という概念が生まれ、私有財産の蓄積こそ善とされ、地球の環境資源を食いつぶそうとしているのが、弥生時代以来のたったの2000年です。縄文時代の1万年からしたら5分の1に過ぎません。
ほんの一握りの人が幸福となり、圧倒的多数が不幸になる。
こんな理不尽なことはありません。
縄文時代の世界観、宗教観に思いを馳せる、それは現代を生きる我々にとって、とても大切なことのように思うのです。