憲法違反がまかり通る
休業要請に従わないパチンコ店がやり玉に挙がっていますね。
各県の首長が店名を公表してさらし者にする。それを自粛ポリスなる輩が出現して抗議をする。
これって、いくら首長の権限でやっていいとはいっても、はっきり言って憲法違反ですよ。あくまでも自粛の要請です、強制ではありません。営業をするもしないも事業者の自由な判断です。憲法では、営業の自由を保障する明文は存在しませんが、職業選択の自由が保障されていて(憲法22条1項)、職業選択の自由が認められていれば、営業の自由も認められているという解釈がなされています。
だから、繰り返します、営業をするもしないも事業者の自由なのです。
休業を要請ではなく「強制」するなら、それだけのしっかりした休業補償をする。これがまともな経済政策なのです。すべては国の政策の誤りに根本の原因があるわけです。
もとをただせば、中国からの観光客の入国をしばらくの間許していたこと。政府の初動での失敗が今日のような感染拡大を招いてしまったのです。忘れてはいけません、これがすべての失政の始まりです。それを安倍首相は一言も謝罪の言葉を述べていませんよね。いまだにですよ。
現実問題として、営業を自粛すれば事業が成り立っていかなくなるわけで、じゃあ休業の補償があるかっていったら無いに等しいわけですから。これじゃ、事業者に一方的に死ねと言っているのと変わりはありませんよね。
パチンコ店に限りません。私たちの理美容業だってそうです。
中小店は、持続化給付金や都道府県で設けている休業協力金で休業中の補償はなんとかまかなえます。ところが、多店舗展開などしている大型店では、これらの休業補償ではまったく補填にならないわけです。
だから営業をせざるを得ない。もちろん感染防止のための徹底した防疫体制を組んでのうえです。それでも自粛要請に従わざるを得なかった美容室の大型倒産が2件発生しました。これは大型店倒産の始まりに過ぎず、このままなんら政府の対策が打ち出されなければ、今後多くの大型店が倒産の憂き目を見るでしょう。
分断の奥にある自己責任
ここに同業者同士の「分断」があります。
上記のような補償で休業に踏み切ることができた小型店は、大型店の窮状には他人事です。むしろ心の中では快哉を上げている人もいます。
大型店と小型店との分断。そのうち、何がなんでも事業存続を願う経営者と、解雇や雇止め、労働契約の見直しといったふうに、従業員との分断が起こるでしょう。
そして分断の意識の底には、最近になってにわかに市民権を得た感のある「自己責任」があります。本来は小型店でいいものを、業容を拡大させたのは経営者の勝手な欲であり、それは自己責任であると。力のない従業員ばかりが犠牲になるのではなく、経営者はやることはやれといった、従業員の側からの経営者への責任論にも発展しかねません。
この自己責任という言葉。私の経験から、ひときわ印象に残っている言葉です。
私がドン底に突き落とされているときに、初めて面と向かって言われた言葉です。「それはあなたの自己責任だ」と。
確かに言われてみればそうかもしれません。事業の失敗は経営者である私にすべての責があると。
詳しくは申し上げられないのですが、理美容室の繁栄を願うあまりに、ともすれば繁栄に逆作用を及ぼしかねない流通や養成校などの構造的問題に果敢にメスを入れたのですね。すると流通業者から不買運動を起こされ、それに同調したメーカーからの広告差し止めにも遭いました。いわれない非難と営業妨害をこうむったことなど一切考慮されません。
自己責任と言い切ってしまうと、そこからこぼれ落ちるさまざまな要因を見過ごすことにもなるのです。私の経験からはっきりと申し上げることができます。
一見正論だから始末に負えない
まぁ、自分のことはこれ以上いいですが、たとえば風俗店に就労する女性に対しても当てはまります。なんの休業補償も与えられず、それは彼女たちの自己責任だからと。お笑いタレントが大炎上しましたが、風俗に従事する女性を揶揄(やゆ)するコメントなどを見ていてもそうです。女性を性的対象の単なるモノとしか見ていません。人格の完全否定です。
今までに育ってきた家庭環境や現在の家族関係、教育の機会や生活苦といった、本人の責に帰せられない個別の事情など一切考慮に入れない、このような自己責任論が大手を振って歩いています。
感染者への情け容赦のない吊し上げ、医療従事者への心無い差別もそうです。
このように自己責任は拡大解釈され、独り歩きし、貧困、病気、最近では女子プロレスラーを死に追いやった誹謗中傷なども、自己責任の果ての象徴的な出来事です。
自己責任論は一見正論に見えるだけに、そんな“正論”を振りかざすことが正義であるような風潮はとても危険です。本人の責に負えないところで現実の悲惨さを救うために福祉国家の思想は形成されているのですが、これがすべて自己責任に帰されてしまうと、貧困も自己責任、病気も自己責任で、そのうち福祉予算は削られ、生活保護も不要となり、教育の機会均等も奪われ、貧富の格差はますます拡大して弱者を切り捨てるという、分断と不寛容な社会が出来上がってしまいます。
過去の歴史を見てもそうです。国民の間の分断と格差拡大、他者への不寛容と差別意識がファシズムを生み、先の大戦へと駆り立てたのです。
今回の政府の政策はまさにそうで、自分たちの政策の失敗をそのままに、力のない中小零細はつぶれてしまえ、なぜなら、すべては「自己責任」だから。そんな本音が透けて見えた今回の政府の「遅い、ショボい、ポーズだけ」の経済政策です。そんな自己責任の風潮を許してしまっていいのでしょうか。為政者の思うつぼではないでしょうか。
自己責任を超えて
そんなことを考えている折も折、手にした本が、その名も『自己責任の時代』(ヤシャ・モンク著/みすず書房)です。
自己責任の流行は欧米も同じであり、本書では、なぜ自己責任が今日のようにさかんに吹聴されるようになってしまったのか、福祉国家の本来の目的とはなんだったのか、を述べています。
著者はこう言っています。
「『自己責任』は奇妙な言葉だ。それは耳当たりのよさと不気味さをかねそなえており、当たり障りのない分別を表す一方で無謀なふるまいに盲執する思慮の浅い人びとへの露骨なおどしにもなる。」
として、こうも言います。
「我々は『義務としての責任』(他者への責任)というとらえ方が優勢だった世界から、『結果責任としての責任』(自己責任)という新たなとらえ方が舞台を支配する世界に移ったのである。責任そのものが人目を引くようになったことではなく、この変容した責任像が優位を占めていることこそが、責任の枠組みと責任の時代の両方をまとめて特徴づけているのである。」
こうやって自己責任が生まれたいきさつを探り分析すると同時に、自己責任を当然のようにあげつらう時代の危うさに論及し、自己責任の時代から離脱するためにはどうしたらよいのかまでを考察した、深く考えさせられて示唆に富んだ一冊となっています。
こういう時代だからこそ、自己責任の追及よりは、他人の痛みや悲しみを思いやる「想像力」こそが試されているのであり、その想像力こそ、不寛容よりも寛容を、自分本位よりも他者への思いやりを、分断よりも連帯を求める、真の社会の、個人の、成熟を推し進める原動力のような気がしてならないのですね。
勝者と敗者を分けるのは、
一日5分間、
考えるかどうかで決まる。
君子は和して同ぜず、
小人は同じて和せず。
(論語)
―君子は人と調和するが、考えもなく他人の意見に同調することはない。
つまらない人間は、考えもなく他人の意見に同調するが、調和はしない。―