「我見」では未熟でダメだ
能楽の最高極致に「離見の見」があります。能芸の大成者である世阿弥の命名です。
どういうものかというと、己の舞に没入している演者は陶酔して舞っているのですが、それでは未熟で駄目だ、と説いているのですね。
「舞に、目前心後といふことあり。『目を前に見て、心を後ろに置け』となり。」
そう世阿弥は能楽の奥義書である『花鏡(かきょう)』で始めます。
「目前左右までをば見れども、後ろ姿をばいまだ知らぬか。」
舞を舞う自分は目前は左右まで見ることはできる。しかし、それは「我見」に過ぎない。我見では、自分の後ろ姿まで見ることができない。
そこで世阿弥は「離見」を説くのです。
「見所(観客)より見る所の風姿は、我が離見なり。
‥‥‥離見の見にて見る所は、すなわち見所同心の見なり。その時は、我が姿を見得するなり。」
つまり、観客が舞台上の自分を見ている視線で舞っている今の自分を見る。これこそが「離見」であり、さらに、自分の眼ではけっして見ることのできない、自分の後ろ姿まで見よ、自分の姿の全体をとらえよ、と言っているのです。
「離見の見にて、見所同見となりて、不及目(ふぎょうもく:肉眼の届かない)の見所まで見智して、五体相応の幽玄をなすべし。」
演者は、演じている自分と、それを客観的に観客の席で観客の眼で演じている自分を見ている自分、さらに舞台に立っていま演じている光景を俯瞰(ふかん:高いところから見下ろすこと)して見る自分、このような3つの眼を持たなければならない。演技や役に没入する自分と、それを醒めた目で見つめる自分、さらに全体を見る自分との三重性を生きることが、すぐれた演者の要件だというのです。
大抵の世阿弥研究家は、自分の視点と観客の視点との2つの視点しか言いません。私はそこに、もうひとつの視点、つまり俯瞰している視点を加えて3つの眼を指摘したいのです。もちろん、私の独創です。
世阿弥って本当に凄いことを言っていますね。しかも現在からおよそ600年前の室町時代でのことです。
剣聖・宮本武蔵の眼
もう一人の偉人を紹介します。60回の果し合いで一度も敗れたことがないという剣聖・宮本武蔵が同じようなことを言っているのですね。武蔵が著した、現代のビジネスマンにも人気が高い『五輪書』には「目付の事」として次のようなことが書かれています。
「目のおさめ様(よう)は、常の目よりすこし細き様にして、うらやかに見る也(なり)。目の玉を不動、敵合近く共、いか程も、遠く見る目也。其(その)目にて見れば、敵のわざは不及申(申すに及ばず)、左右両脇迄も見ゆる也。」
敵と相対したときは、いつもより少し細目にして、しかも、うらやかに見る、という。うらやかとは、はればれとのどかなさまを言います。そして、眼の玉は動かすことなく、敵をまっすぐに見据えるのではなく、敵を通り越して、いささか遠くを見るようにする。そうすれば、敵が繰り出す技は言うまでもなく、左右両脇までも見ることができるという。
その後がこう続きます。
「観見(かんげん)二ツの見様、観の目つよく、見の目よわく見るべし。若(もし)又敵に知らすると云(い)ふ目在り。意は目に付、心は不付物也。能々(よくよく)吟味有(ある)べし。」
観見ふたつの見様がある。観の目は強く、見の目は弱く見ること。
「観の目」とは、現象として見えるものの奥にある本質や相手の心を見ること。「見の目」とは、目を開いて目に映るものを現象として見ること。つまり、見の目よりも観の目のほうが重要であると武蔵は説きます。
こんな敵と戦いたくない
いかに敵を倒すかばかりに関心がいってしまうと、相手の表面ばかりを注視し、それでは自分を見失い、相手に負けてしまう。見るではなく、観ることがいかに大事なことであるかと言っているのですね。しかも、その方法が、薄目でうらやか、遠くを見るような目線でと。
こんな人に相対することになったとしたら‥‥ゾクゾクっとする怖さを覚えるのは私だけでしょうか。
そうなのです、相手の立場になって見れば、こんな敵と戦いたくはなくなる、戦う前から負けてしまうと思います。武蔵も、眼前の相手を見るのではなく、相手の目線になって自分を見ることの大切さを説いているのです。
さらに、そこを突き抜けて、遠くを見る目線によって、自分と敵とが戦っている光景を客観的に見ることができる。だから、敵の心を見通すことができるし、敵が繰り出す技も見通すことができる。
まさに、世阿弥の「離見の見」です。武蔵は世阿弥に遅れること200年、今から400年前の出現となります。
現代では、現役を引退してしまいましたがイチローさん、ボクシングの井上尚弥選手、体操の内村航平選手、歌舞伎の坂東玉三郎などは明らかに離見の見の極致に達していると思うのですが、あなたはいかがお考えですか?
それらのキラ星の如くの著名人でなくても、無名ではあるけれどその道を極めた人には共通する極致が「離見の見」であると思うのですね。
離見の見のトレーニング
そこで、なのです。
このように「離見の見」を、芸道や武士道、あるいは現代のスポーツなどの道を究める人や、すでに達した人ばかりの特権にしてしまうのではなく、私はもっと拡大して考えてみたいのですね。
まして今はコロナ禍の時代です。昨年から持ち越した、とんでもなく大きな課題です。しかも、ますます感染拡大の猛威を振るっているという状態で、いつ収束するのかも含めて先がまったく見通すことができません。
しかし、こんな不透明な時代にあっても、さまざまな決断を強いられる、これが経営者の宿命です。
そんなときに、こういう決断をしたらお客様はどう思ってくれるだろうか、それをお客様の目線なって想像してみる。
一度そう決断した後の、サロン内の光景を(お客様とスタッフのやり取りに笑顔はあるか、納得はあるか、さらには感動はあるか、など)想像力を駆使して思い描いてみる。
これこそまさに「離見の見」です。
まず「自分の視線」、次に「お客様の視線」、そして「全体を俯瞰する視線」の3つの視点を持って自分の決断を評価してみることを習慣づければ、新しい、ユニークな事業を発見するのは、すぐそこです。
つまり、「イノベーション」ということです。
そう、現在はイノベーションを起こすにあたって、これ以上の好機の時はないと思うのですね。
出でよ、美容業界のイノベーター!
こんな見地から、今年はちょっと動いてみます。
「コップに半分水が入っていると言うのと、コップが半分空であると言うのとでは、量的には同じであっても、意味合いが違う。取るべき行動も違う。
世の中の認識が『半分入っている』から『半分空である』に変わるとき、イノベーションの機会が生まれる。」
(ドラッカー)