寸陰を惜しむ
私淑する東洋思想の泰斗(たいと)・安岡正篤師によると、「寸陰を惜しむ」として、その惜しむ時間と場所は3つあると指摘されています。
寸陰とは、わずかの時間のことで、その寸陰を惜しむ。
現代人は超多忙ですが、多忙であっても寸陰を惜しんでこれを練磨すると、とてつもない想像力や発想力など、理屈ではとらえられない不思議な力が発揮できるというわけです。
練磨とは、練って鍛え磨くこと、です。
安岡師はこう述べています。
「どんな忙人にでも、寸陰というものはある。精神を集中し、寸陰を積んでこれを練磨すると、非常な感覚力を生ずる」と。
たとえば、日頃からなにかの問題意識をかかえた人が本屋さんに立ち寄ってみる。何万冊、何十万冊もある本屋さんの棚から、特定の本が目前に立ち現れてくる。まるで、「あなたが読むべき本はこれだよ」と訴えかけでもするように。
多かれ少なかれ、こういった経験は誰でもされていると思います。
理屈ではない、こういう不思議な体験は日頃からどれだけ問題意識をもって生きているか、つまり、どれだけ忙しくても精神を練磨して生きているか、が前提となります。
精神を磨練する
そこで、安岡氏が指摘する精神を練磨する3つの時間と場所を挙げていて、これを「三上磨練」と言いますが、その3つとは以下の通りです。
- 枕上磨練
- 馬上磨練
- 厠上磨練
[枕上(ちんじょう)磨練]
寝る前の寸陰を惜しむことです。部屋を暗くして枕元の電気スタンドを点け布団にもぐりこんだ。今日の一日を反省しながら、明日への準備を心の中でする。思いついたことがあれば、あらかじめ用意したメモ用紙に書き入れる。
私の友人でこれを習慣づけた人がいました。思いついたことをメモする。やがて眠りについた後も、はっと起きて浮かんだアイデアをメモしていく。
こうやってひらめいた事業アイデアを実践し検証しつつ自身の始めた事業を大発展させ、今では東証一部上場企業にまで上り詰めました。
誰ですか、眠くなるまでスマホをいじって、そのまま寝落ちしていたなんていうことではいけませんよ。
[馬上磨練]
現代なら通勤電車での車上、あるいは移動のための徒歩で寸陰を惜しむということですね。
満員電車の苦痛で考える余裕はなく、運よく座れたとしても寝落ちするというパターンでは磨練とはなりません。
余程のことがないかぎり、安全に確実に体を運んでくれるわけで、すっきりとした貴重な朝の時間を練磨の時間にあてる。
あるいは、何気に見上げた中刷り広告に、見事なキャッチコピーが見つかるかもしれない。運良く座れれば本を開く。
また、徒歩での通勤途上にさまざまな発見に出くわすかもしれません。
こういう寸陰をいかに惜しんで過ごすか。その積み重ねは、大きな違いとなって表れてきます。
あの二宮尊徳の有名な像は「負薪読書」です。薪を背負いながらも勉強する姿こそまさに馬上磨練です。
尊徳といえば、奉公先で夜遅くまで読書をしていたのを、油がもったいないからと咎められ、それではと自らが菜種を植え、できた菜種と油を交換して灯りにしたという話もあります。
尊徳の残した有名な言葉が「積小為大」。小を積めば、即ち大と為(な)る。「小さいことが積み重なって大きなことになる。だから、大きなことを成し遂げようと思うなら、小さいことをおろそかにしてはいけない。」
まさに寸陰を惜しむ積み重ねがあれだけの偉大な農政改革をやり遂げたのでしょうね。
[厠上磨練]
最後に厠上(しじょう)磨練です。
厠(かわや)とは昔の言い方で今のトイレのことです。トイレで寸陰を惜しんで磨練をする。
トイレは狭い密閉された空間ですから、容易に日常を断ち切ることができます。すると、新たな発想がわいてきます。ここでもメモを活用するといいかもしれません。
ひとつのエピソードをご紹介します。
ある大手の出版社で女性誌を創刊することになりました。どんな雑誌の題号(タイトル)が相応しいか、喧々諤々(けんけんがくがく)の議論を重ねますが、いずれも帯に短し襷に長しで、決定的な題号とはなりません。
そこで休憩となりました。
晴れて新雑誌の編集長となる男性がトイレに入って、おのれのイチモツをつまんで見た。「これだ!」とインスピレーションが働いて、その題号は「女性自身」と決まった。
別のエピソードもあって、その日の朝刊を見ながら大便をしていた。ふと目に留まった広告のコピーに「女性自身」の文字を見つけた。「これだ!」とインスピレーションが働いて決まった。
どちらが本当なのか知りません。でも、発想がひらめいた場所はトイレであることは同じです。
つまり厠上磨練。
誰ですか、ここでもスマホの持ち込みですか? もったいないですよ。
このように寸陰を惜しんで練磨する習慣をつけることです。
古今東西、偉大な発想、発見のきっかけ、インスピレーションなど、理屈を超えた不思議な出来事はよくあることです。そんな歴史的な出来事にまで至ってしまうほどの発端のきっかけを称して、「歴史は夜つくられる」と言ったりしますが、これでは閨上磨練。閨(けい)とはちなみに寝室のことです。特に男女の寝室での交わりによって歴史はつくられてしまうといったことを言い表してます。
そうではなく、同じ理屈を超えることに違いはありませんが、正確には、歴史は「枕・馬・厠の三上を磨練」することによってつくられるといったほうがスマートですっきりしますね。
「凡と非凡のわかれる所は能力の如何(いかん)ではない。
精神であり感激の問題だ。」
(安岡正篤)