ポジティブ礼賛の風潮
世はポジティブ志向礼賛といった風潮があります。そう、“風潮”なのですから、確かな根拠があって礼賛しているわけではありません。
しかし風潮にしては、人物への評価や物事の価値判断に大きな影響を与えているようです。
私の場合、お恥ずかしいことですが、事業を失敗してからというもの、98%の人が私から去っていきました。
ある人は捨て台詞でこう言いました。「運の悪い人とは付き合わないっていうのが鉄則だから」と。
何が鉄則なのでしょうか。天地自然のなかにそんな鉄則は存在するのでしょうか。
たぶん、自己啓発本などで、運のいい人とだけ付き合え、運の悪い人とは付き合うなと。それを妄信しているのでしょうね。
思い込みのムリ
自己啓発=ポジティブ志向の先進国と言えばアメリカですから、アメリカ発の自己啓発本は日本で多く翻訳されて出版されています。
自己啓発本を書き、講演までして、それこそ巨万の富を得ている自己啓発家の類は何人もアメリカにはいるのですね。
それらはこぞって運の悪い人、ネガティブな人とは付き合うなと言っているようです。
しかし考えてみれば、「運の悪い人を遠ざけよう」とでもしない限り、簡単に崩れてしまうほどポジティブ志向って脆弱なものなのでしょうか。
ここに、思い込みの無理があると思うのですね。
周して比せず
東洋では、こんなキャパシティの狭い考え方はしません。
「君子は周(しゅう)して比(ひ)せず、小人(しょうじん)は比して周せず。」
「君子」とは徳性のある人、人の上に立てる人、リーダーのことを言い、「小人」とは度量や品性にかける人、つまらない人のことを言います。
意味は、「君子は誰とでも広く公平に付き合って、偏った付き合い方はしない。
しかし、小人は、それとは反対に、一部の人とばかり付き合って、広く人と付き合うことをしない。」
だから、君子の付き合い方をしなさいと言うわけです。運の悪い人、ネガティブな人を避けてはいけない、遠ざけてはいけない、広く等しく付き合いなさい、と。
まさに君子、度量の広い考え方ですね。
懐が深い東洋の世界観
『論語』の別のところにはこういう言葉もあります。
「三人行えば、必ず我が師有り。其(そ)の善なる者を択(えら)びて之(これ)に従い、其の善ならざる者にして之を改(あらた)む。」
―三人が行動すれば、そのなかには必ず学ぶべき師がいる。そのよき人を選んで見習い、よくない人を見ては、自分に省(かえり)みて改める。―
よくない人とは、尊敬できない人、運の悪い人、ネガティブな人のことですが、その人の言動をよく見て、自分が同じことをしていないか我が身を振り返って反省して改めましょう、と言っていて、さらに、それができれば、そういう人も自分の先生にすることができるとまで言っているのですね。そう、反面教師にしようと言っているのです。
「善ならざる者」も先生にすることができる。じつに懐が深いですね。
正見そして諦観
さらに、ポジティブ志向をしていると、現実を忘れて、とんでもない理想や夢ばかりを追い求めることになり、結果的に不幸に陥ってしまうという例は数え切れないほどあります。
東洋ついでに仏教のことを言います。仏教では「正見(しょうけん)」という考え方があります。ありのままを見るということです。
たとえば、お腹が痛くなったならお腹が痛いという事実をありのままに認めるということです。そうすれば、病院に行くなりして必要な措置を講じることができます。
ところがポジティブ志向になると、痛いなんて我慢すればやり過ごせる、たいしたことではない、と考えます。そして、症状は悪化して生命にかかわるほどの取り返しのつかないことになったりします。
これが企業経営や政治の世界なら、ポジティブ志向の失敗はとてつもない悲劇となります。今日のような危機的な時代はとくにそうです。
危機管理の鉄則は最悪を想定して手を打つことです。
ところがポジティブ志向になると、まだまだ大丈夫、それよりも気合で乗り切れなんて変な精神論をかざして、そのまま突っ走ってしまう。その結果が、多数の人を巻き込んだ、とりかえしのつかない不幸な事態に追い込まれてしまうのですね。
今回のコロナ禍での政府の対応、コロナ禍による経営環境の変化を教訓としない経営者の無策には、ポジティブを通り越してノー天気と形容したいほどです。
さらに仏教ではネガティブ志向の典型ともいうべき「諦観(たいかん)」という考え方もあります。なぜそうなったのか、冷静になって原因を明らかに見るということです。
徳川家康にとっての生涯で初めての負け戦と言われる戦いが三方ヶ原の戦いで、武田信玄軍に敗れて敗走した際に、家康はあまりの恐怖から馬上で脱糞したと言い伝えられています。さらに自軍の陣地に命からがら戻ってくると、絵師に銘じてそのままの情けない姿を描かせたといいます。みずからの慢心を戒めるために。
これこそ「諦観」です。自らの慢心が招いた敗戦であったと、しっかりと原因が家康にはわかっていたのですね。情けない自らの肖像画を見るたびに慢心とならないように自分自身を戒めていたのでしょう。ここが家康の凡百の武将と決定的に違うところです。
陰陽相待性の理論
このように、東洋の考え方というよりも世界観は、陰陽で成り立っています。陰もあれば陽もある、陰は陽を待ち、陽は陰を待つという陰陽相待性(西洋のように相対という互いに対立するという世界観ではない)の理論で成り立っているわけです。
ポジティブ志向おおいに結構。ただし、ネガティブを排除した志向はどこか危ういし、むしろ身を亡ぼすほどに危険。なぜなら世界は陰陽で成り立っているから。
ネガティブも仲間に入れてバランスよく生きましょう。また、組織も陰陽にのっとって運営していきましょう。
それが天地自然、宇宙の理(ことわり)です。
「陰陽なるものは、条理なり。
条理なるものは、本義を草木の理において取るなり。」
(三浦梅園)